「……も、ダメ。熱い。死ぬ。」
「リヒト、熱いのにどうして私にくっつくの……?」
うさぎ荘がある山は年中を通しても、暑すぎたり、寒すぎたり、といった気候になることはない。ところが例外もある。この地の管理者たる神が体調(?)を崩した時は決まって悪天候になるようで、今日はその例外にあたる酷い暑さだった。それでも空調の効いたうさぎ荘にいれば苦なく過ごせるはずだが、不運は重なるもので、ちょうど壊れてしまったのだ。
先輩寮生3人組は空調やら神の体調やらをどうにかするため出払っており、うさぎ荘に残されたのはリヒトとリーゼルだけだった。
リビングのソファーに腰掛けながらうちわをパタパタあおいでみても汗が止まることはなく、もう限界といった様子のリヒトがリーゼルの腰へおもむろに手を回し、後ろから寄りかかるように抱きしめた。肩口に頭をあずけるリヒトの浅い呼吸がリーゼルの耳をくすぐる。
「どうせ死ぬなら、姉さんの熱で……。一緒に逝くのでもいいけど」
どうやら暑さが本格的にリヒトをおかしくさせてるらしい。
「あのね、私達が死ぬことはないのだから、このままじゃただの生き地獄よ」
「リーゼルが傍にいるならどこだって天国でしょ……」
――重症だわ……!
言い聞かせて手を離してもらうつもりがより強く抱き寄せられ、リーゼルは上半身の体重をリヒトに預けるような姿勢となってしまった。
ちらりとリヒトを見れば、前髪を伝った汗が上気した頬へ線を描くように落ち、伏せた長いまつ毛から覗く瞳は濡れていて、じっと見続けてはいけないような気持ちになる。背中を伝う汗も熱も、もはやどちらのものか分からない。
汗の香りすらどこかいい香りなんてことがあるのねと、リーゼルはぼんやりした頭で思った。
不快ではないにしろ、このままだと寮生が帰ってくる頃にはふたりとも熱中症だ。うさぎ荘のお母さんことウィルに、ふたり分の看病で負担を強いてしまうのは避けたい。まずは目の前の患者予備軍をどうにかする必要がある。
腕のなかで もぞもぞと向きを変えたリーゼルは、リヒトのベストに手をかけた。
「はい、脱いで。タイとシャツのボタンも少し外すわね。これで少し良くなればいいけれど」
目を見開くリヒトに、思わずベストに延ばした手が止まる。何かまずいことでもあっただろうかと理由を探るようなリーゼルの視線に、少し逡巡したのちリヒトは答えた。
「や、言ってくれれば自分で、と思って」
「あっ」
「姉さんのえっち」
「ち、ちがっ……!私はただ適切な処置をと思って!」
「そんなことされたら僕、やらしーコトしていいのかなって思っちゃうよ」
「もう、からかわないで!リヒトはそんなこと思わないでしょう?」
「……」
思うんだよ、本人が言ってるんだから、とリヒトは思いつつ追撃すると面倒になりそうなのでキュッと口を結んだ。彼女の中の自分は一体どれほど清い男になってるのか、思わず遠くを見つめる。
「とにかく、ひとりでできるならそうしてね。私は冷蔵庫から冷やすものを持ってくるから」
「待って、ごめん、今姉さんを抱きしめるので両手がふさがってるから、やっぱ自分じゃできない」
「えぇ……」
手を離せばいいのでは、と思いを込めてじっと見つめると熱でぼんやりとした瞳にじっと見つめ返される。どうしてもくっついていたいらしいリヒトの態度に負け、するするとベストを脱がし、タイに手をかける。
――これは適切な処置よ。なのに、なんだか本当にいけないことをしている気分になるわ。
先ほどの会話を意識してしまい、ボタンを一つ一つ外すリーゼルの手はぎこちなくなっていく。
ほんのり染まったリーゼルの頬が、うだる暑さのせいかこの状況のせいなのか、リヒトは見極めるように見つめた。
「はい、できたわ。それじゃ冷蔵庫へ行ってくるから、少しいい子で待っててね」
「えぇ、やだ……。ついて行く」
リヒトは相変わらず熱さでぼんやりとしているようで、”リーゼルの熱で死ぬ”という妄言も半ば本気のように両手を固く結んでいる。
無理に離すよりも連れて行ったほうが早そうだと判断し、後ろにぴたりとくっついたリヒトを引き連れよたよたとキッチンへ向かった。傍目に見ると1秒たりとも離れたくないバカップルのような距離だったが、今のふたりにとっては人目など心底どうでもいいことだった。
ガラリと開けた冷凍室にはこんな時の為にペットボトルを数本凍らせてある。2人分を手早く取り出したリーゼルは、自身のベストの内ポケットから出した大判のハンカチをくるくるとペットボトルに巻き付けた。
「首にあててね。大きい脈が通ってるの、ここに」
つーっとリヒトの首筋を手でなぞるとビクリと肩がはねる。
「――ッ」
「あっごめんなさい!びっくりさせて……」
さっと引っ込めようとした手にゆっくりとリヒトの指が絡みつき、熱を持った頬へ、ひたりとリーゼルの手をあてがった。冷えた手のひらの清涼感を味わうように頬をすり寄せ、小さく吐息を漏らす。
「はぁ……きもち……」
「そっ、そう、かしら」
「ん……」
とくとくと心臓が脈打つ。きっとこの部屋が暑すぎるせい。いいえ、リヒトの脈拍がうつっただけかも。
ぽたりと雫がつたう端正な顔立ちに、柔らかく弧を描くとろんとした瞳に、手のひらのほてりに、じっとり絡まれて動くことができないでいる。リビングで風に揺れるカーテンのはためく音が耳に届いて、ゆっくりと、時間だけが溶けていくような感覚で。
ふいに、もう片方の手に冷たい何かがつたって、むき出しの冷えたペットボトルから流れた水滴だと気付いた。ハンカチ巻きペットボトルに持ち替え、リーゼルはせきを切ったように言葉をつむいだ。
「こっちを首にあてたほうがもっと気持ちよくなれるわ。ね?」
リヒトの空いている手へそれをグイッと握らせ、そのまま首にあてがわせた。
「さっきも言ったように大きい脈があって。あ、他にも脇の下とか太ももの付け根でもいいって聞いたことがあるわ」
「……ふともも、どこ?」
「えぇっと、どこ、になるのかしら。ごめんなさい、勉強不足ね。緊急時に冷やすなら首と脇が最適だと思ってたから、具体的に太もものどこか分からなくて。付け根というのは多分内側のほうだと思うのだけど……うん、今度きちんと調べてくるわね」
少しだけ雰囲気にのまれてくれたように見えたのに、リーゼルはすっかりいつもの調子を取り戻していた。リヒトはふっと笑い、小さく声を漏らした。
――あぁ、残念。
一緒に溶けてくれればよかったのに。
リーゼルは何やら真剣に考えこみ始めていて、冗談とも本気ともつかない熱混じりの声が届くことはなかった。
▼リヒト視点(漫画)